「あれから10年も この先10年も」
たまにこのフレーズを思い出す。渡辺美里のアルバム『ribbon』に収められた、『10 years』という曲の一節だ。
この曲を聞いたのは高校二年の夏だった。
ぼくの通っていた高校はどこにでもある地方都市の一つで、目立ったものといえば空港と自衛隊の基地が街の外れにあることだった。空を見上げれば、たまに飛行機の飛んでいる姿を見ることができた。
特に自衛隊の航空機は、ジェットエンジンの轟音とともに空を切り裂いて飛ぶ。そのため、学校の教室には防音の窓が備えてあった。夏場には窓が閉め切られて、クーラーの効いた教室で授業を受けたことを覚えている。
そんな夏の教室で、イヤホンを耳に押し込んでよく音楽を聴いていた。音楽を聴く媒体がレコードからCDへ切り替わり始め、10代からお金を巻き上げようとレコード会社が次々にアーティストを発掘していた時期だ。
雨後の筍のように次々と新しいアーティストがCDを出し、ヒットチャートが目まぐるしく移り変わった。ぼくはレンタルCDショップへ足繁く通い、少ない小遣いからCDを借りて、カセットテープへダビングしてはウォークマンで片っ端から音楽を聴いていた。
レベッカ、バービーボーイズ、ブルーハーツ、ジュンスカイウォーカーズ、プリンセスプリンセス、DREAMS COME TRUE……。今にしてみれば、曲に乗って日本語の詞が流れれば何でもよかったのかもしれない。
音楽そのものよりも、イヤホンで音楽を聴いている行為自体が好きだった。10代らしく体から棘を出したハリネズミのように毎日を過ごしていた自分にとって、共感できる歌詞を耳に届けてくれる彼らの存在は心の拠り所でもあった。
そんなときに、渡辺美里の『ribbon』というアルバムを知った。友達の一人が熱心に渡辺美里を聴いていたこともあり、特に深く考えずそのCDをレンタルしてカセットテープにダビングして聴いてみることにした。
期待もなく聴いてみたら、一曲目の『センチメンタル カンガルー』のギターのイントロが鳴った途端、そのアルバムの虜になってしまった。
まず思ったのは、渡辺美里の歌唱力の高さだった。まずもって、歌が抜群に上手い。声量があり、声自体にスケール感がある。迫力を保ったまま高音も伸びる。そのころ人気のあったアーティストは歌の上手い人ばかりだったが、それでも頭ひとつ抜けているように思えた。
あとは、歌詞が中性的なことも印象的だった。一人称に「ぼく」を使っている歌が何曲かあり、女性シンガーでありながら(おそらく10代の)男性の視点で歌っていることが新鮮だった。
歌詞は具体的なストーリーというより、情景の浮かぶ断片的なものが多かった。例えば小室哲哉が作曲し、シングルカットされてヒットした『悲しいね』の歌詞。今、読んでみても、何が悲しいのか判然としない。それでも「一番の勇気はいつだって 自分らしく素直に生きること」の一節は、不安定な時期を過ごしていたぼくの心に強く響いた。
このアルバムの最後の曲『10 years』は、特に好きになった曲だった。歌詞を読んでみると、それは旅立ちの歌なのがわかる。おそらく高校を卒業する際、街に別れを告げ新天地へ向かうことを綴った曲なのだろう。
歌の中でそれまでの街の記憶の一つ一つを思い返し、それでも未来を見つめながら曲とともにアルバムもまた幕を閉じる。この歌の余韻を感じた後、カセットテープをA面に裏返してまた最初から再生する。一時期は、それを何度も繰り返していた。
しかしそれほど熱心に『ribbon』を聞いておきながら、次に出たアルバム『Flower Bed』は二、三度聴いただけで興味を持てなかった。
今、聴いてみると「曲の幅を広げよう」と、意欲的に作られたことがわかる。『ribbon』に比べると全体的に歌詞の抽象度が上がり、曲の構成も多様になっている。ただ心に寄り添ってくれるような歌を求めていた当時のぼくには、とっつきにくく感じた。
そこからは、自分の人生に渡辺美里が登場することはなくなった。西武球場でライブを毎年やっていることは知っていたが、それでも何十年も『ribbon』を聴き返すことはなかった。
それが最近になって、渡辺美里のライブ映像がYouTubeのおすすめによく登場するようになった。YouTubeのレコメンドのチューニングが、忘れていた彼女の存在を再認識させたのだ。
それらの映像を通し、彼女が今でも精力的にライブ活動していることを知った。「この先10年も」を何度も積み重ね、今年はデビュー40周年になるという。
今年、行けるライブはないかと好奇心で調べてみたら、8月に隣県のホール会場でやることがわかった。チケットはまだ取れそうだった。
「行こうと思えば行けるな……」と思ったものの、その日はウェブページを閉じた。ファンでもないのに、隣県まで車を走らせて行くのもなあ。しかし翌日になって思い直し、チケットを取ることにした。4月から発売されているので、おそらく会場のかなり後ろの席だろう。ひょっとしたら二階席かもしれない。「まあ、それでもいいか」と思った。
高校二年の16歳のとき、何度も『ribbon』を聴いていた日々は、つい昨日のように思い出せる。空に浮かんだ飛行機雲を見上げながら、イヤフォンを耳からぶら下げ、自転車のペダルを漕いでいたことも。
それから10年、また10年と、月日はどんどんと過ぎていった。
あのころは自転車のペダルを気怠そうに踏んでいたが、変わったことはそれが車のアクセルになったこと。ウォークマンがスマートフォンに変わったこと。そして年月分だけ、歳を重ねたこと。そのころに比べてまったくの別人になったようにも思うが、まるで変わっていないようにも思える。
ライブへ行ってみることで、変わり映えしない日々に印をつけてこようか。パラパラとめくるノートに、付箋をつけるようにして。
「あれから10年も この先10年も
大切なものが何か 今も見つけられないよ」
このエッセイはnoteに初出掲載されたものです。