今年の春に、ぼくは一枚も桜の写真を撮らなかった。
撮ろうという気がまったく起こらなかった。街中の桜が一斉に咲いて、「いつぐらいが見ごろだろう?」とワクワクはしていた。満開で天気の良かった日には、桜を綺麗に見られる場所へドライブに出かけたりもした。
しかしその際に、カメラは持っていかなかった。というよりも、「カメラを持っていく」「桜を写真に撮る」という発想が浮かばなかった。「ああ、そうか。SNSをやめたからか」と気づいたのは、桜が完全に散った後になってからだった。

すべてのSNSをやめて、2年ほどが経った。最初にフェイスブックをやめ、次にTwitter、最後にInstagramのアカウントを削除した。
それまでは投稿もしていたし、タイムラインを眺めてもいた。いや「眺めてもいた」は、少し気取っている表現だ。実際には、ほぼ中毒のような感じだった。少しでも隙間時間があればSNSのアプリを起動し、指先でスクロールする手を止められなかった。
アプリを起動する瞬間、最も気にしていたのは「通知があるかどうか」だった。自分の投稿に「いいね」はついているだろうか。フォロワーの数は増えているだろうか。そうして期待して落胆し、ときに気持ちが高ぶった。
SNSは撮った写真を、見てもらう場所としても使っていた。だから投稿した写真に「いいね」がつくかどうかは、その日の気分を上げ下げする大きな要素となっていた。
想定以上に「いいね」がたくさんつくと、世界中の人が自分の写真に注目しているような気分になった。その逆にまったくつかないと、「お前の写真はその程度だ」と無言でいわれているようで心が掻き乱された。
なぜすべてのSNSをやめようと思ったか。色々な理由があるが、そうして気分が上げ下げするのに疲れたのもあった。iPhoneの小さな画面に、気持ちのすべてが持っていかれる気がする。このままでは自分の心はどうなるのだろう、そんな防衛本能のようなものが働いたのかもしれない。
そうして一つひとつのSNSをやめていった結果、心は以前より明確に軽やかになった。朝起きて、すぐにスマホをチェックすることもなくなった。他の大きな変化として、ぼくは写真をまったく撮らなくなった。

SNSをやめてからしばらくは、それまでのようにカメラを持って撮りに出掛けていた。気分が軽くなったことをのぞけば、写真に対しての気持ちの変化は感じなかった。しかし行動は正直だ。カメラを持って出かける回数が目に見えて減っていき、ついにはまったく撮らなくなった。
防湿庫に何ヶ月も入ったままのカメラが視界に入ると、ぼくは罪悪感のようなものを感じていた。罪悪感?誰に対してだろう?応援してくれていた人へかもしれない。それとも写真に誠実に取り組もうとしていた、自分自身に対してかもしれない。
ぼくは結局、「いいね」をもらうためだけに、熱心に写真を撮っていたのか。他人の評価を得たいことが撮る動機だったのか。そんなふうに思って、写真への気持ちを蓋するようになった。冷凍庫には期限切れのフィルムが数本、眠ったままになっていた。
そうして一年ほどまったくカメラを触らない期間を経て、今ではまた写真を撮りに出掛けている。それは誰に見せるためでもない写真だ。SNSのアカウントはもう持っていないのだから、その写真で「いいね」をもらうことはもうない。
カメラは世界と自分とを接続する媒介だ。それを通して外の世界を見ることは、自分の心を探ることにもなる。ぼくはファインダーを覗きながら、「なぜこれを撮るのだろう」と自分自身に問いかけている。

今年の桜を見たとき、ふと「以前は桜を一生懸命、撮っていた」と思い出した。そのときの自分の姿は、なぜかゲームに熱中している子どもと重なった。ハイスコアを目指して何度もやり直し、攻略法のパターンを見つけ出して、上がっていくスコアに夢中になる。
以前のぼくは写真というツールを使って、「すごい人」と思われたかったのかもしれない。その結果、写真と「認められたい」という焦りとが強く結びついてしまっていた。
今は写真を通し、何をしようとしているのか。
いつかまた、今度は素直な気持ちで桜をファインダーに収めたい。そのときにはカメラを通して見つめる世界を、伝えたいことを、今より少しはわかっているだろう。